あいつの部屋に向かった。
辿りつくと、そこは別世界でくらりと立ちくらみがした。
6
「仙蔵」
「ああ、作戦参でいくぞ」
その日、6年と5年の実習訓練だった。
二人組で、相手の持っている札をとり、チームで競う。
私は、文次郎と共に、札を手に作戦通り、
次々と罠にかかった6年に5年を見て、高らかに笑い、
札を奪っていく中で、私は会いたくない相手にあった。
彼らは、いや彼は、変わらず豊かな黒髪をなびかせて、長いまつ毛に大きな瞳。
私たちを見てとき、少しだけ、嫌そうな顔をした。
ああ、私も嫌だ。
「おやおや、立花先輩と潮江先輩じゃありませんか」
「鉢屋」
そういったのは、文次郎で、私の目は、久々知兵助にだけ釘付けだった。
鉢屋の挑発に、乗るなバカモンジ。
いつもの私ならそう言っていただろう。だけど、私は、ただ一直線に走った。
7
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
彼の速さが、尋常じゃない速さであったわけではない。
むしろ、忍として、6年生として普通よりも上での速度で、
理解の範疇であった。
ただ、問題は、その人がそんなことをする人物じゃなかったことだ。
彼・立花仙蔵は、作戦参謀や、焙烙火矢などの得意の火器で
遠方支援などを常に行っていた。
細い体に、白い肌。見た目からも肉体派に見えなかった。
そういう仕事はすべて、潮江先輩の仕事であったから、
初めて前衛である先輩の姿をみている。
殴られた兵助も何が起こったのか分からないようで、ポカンとした顔だった。
頬を思いっきり殴られ、なんの防御もしなかった兵助は、地面に尻をつけていた。
潮江先輩の、呟いた「仙蔵?」という呼び掛けで、はっと我にかえった。
でも、立花先輩は、呼ばれたことなんて気づかずに、
肉体派と言っても大丈夫なほどの実力を、私たちに、見せつける。
私は、止めようとしたけれど、潮江先輩に遮られた。
対峙した潮江先輩からは、汗がつぅっと頬を伝わって落ちている。
ああ、この人も感じていたか。
暑い?むしろ、寒い。
それほど、立花先輩の殺気が半端なかった。
ダンと強い叩きつけられる音がして、それからゴホっと咽た声。
このままでは兵助が殺される。
潮江先輩もそう思ったのか、私の相手をやめて、立花先輩のほうに近づいた。
立花先輩は、兵助の胸元を掴み上げている。
「お前は、なぜ」
立花先輩は、殴られて蹴られて、体が、ボロボロの兵助よりも痛い顔をしていた。
なぜの後に言葉は続くことがなく、
終了の合図の、ピーと大きな笛の音にかき消された。
潮江先輩が立花先輩の肩に手を置き、
「終りだ」
と、兵助と立花先輩を離した。
立花先輩は、ぎりと奥歯をかみしめて、
そのまま興味がないとばかりに、横を向くと、手を離して、私たちの前から消えた。
「三・・郎」
兵助の声で、目が覚めて、私は兵助に近づいた。
「大丈夫か?兵助」
「っ大・・・丈夫とは、言い難い」
「そうだろうな。保健室行くか?」
「ああ」
「立花先輩、今からでも武術家になれるな」
そういえば、怪我だらけの兵助が少し笑った気がした。
私たちは、何も知らなかった。何もしなかったから。
気づこうともしないで、下らない話で、覆い隠した。
面倒くさいものは、いつだって最後に残る。
8
「仙蔵」
「乙音か」
「・・・・・・さまは、今日も目を覚ましていないわよ」
「そうか」
乙音が私の横に座り、ようやく空に月が浮かんでいることに気づいた。
あいつは、今日も目覚めない。
多くの気配がする。全員のくノ一の気配ではないだろうか。
みんな、あいつが眠りについたことに嘆いている。
あの夜。
私は、走ってあいつの部屋に行けば、熱にうなされて倒れているあいつの姿。
病気なんて柄じゃないと思いながら、伊作を呼ぼうとすると、
「病気じゃない。すぐに、終わる」
ぜいぜいと荒い呼吸で、あいつは私の裾を掴んだ。
布団に横たわらせ、熱をはかると熱いから手ぬぐいを水桶に浸からせ、
ぎゅっと絞り、彼女の額に載せた。
しーんとした部屋に、ぜぇという彼女の息遣いだけが響いた。
何回目の手ぬぐいを変えた時だろう。
息だけではなく、彼女が何か呟いていることに気づいた。
耳を近づけて聞けば、
「へーちゃん」
彼女のお決まりの言葉。
うっすら目を開けたから、意識が戻った、と思ったけれど、
彼女は、熱にうかされながら、汗か涙か分からないものを、
頬に流がし、私に向かって、手を伸ばした。
ふらふらと拙い動きをした手は、ようやく私にたどり着いた。
頬に感じる彼女の手は、とても熱く、とても小さい。
「へーちゃん」
馬鹿。違う。私は立花仙蔵だ。と言おうとしたけれど、
「幸せになって」
その言葉で、私は何も言えなくなった。
いや、何も言えなかった。
うわ言で、奴の名前を呼ぶ度に、
あんな間違ったことを思った自分を殺したくなる。
愛していたことも嘘?
愛している人物を、他の奴に盗られてもいい?
はっ、と自ら嘲笑する笑みが自然と出た。
「仙蔵、血が出ているわ」
そっ、と乙音に手を握られて、ようやく気づいた。
強く握りしめすぎて、爪が皮膚に食い込んでいて、
それ以外にも手の甲が赤くなっていた。
今日の授業で、久々知を殴ったときにできたものだ。
ぎりっと奥歯を噛みしめる。
あいつは、久々知兵助を愛している。
愛しているから、久々知の幸せを望んだ。
なんで、あいつじゃいけないのかは、分からないけれど、
私は、そういう愛し方があることを、露程も知らなかった。
無知であることがいかに恐ろしいか、
自分の愛が、なんと小さいことか。
下を見れば、乙音は、相変わらず可愛くて、
抱きしめたいほどの愛しさを感じたのに、
なぜだか、抱きしめることが出来なかった。
月は、曇っていた。
9
暑い暑い暑い。・・・喉乾いた。
目が覚めれば、汗が目に入ってきて、それを拭うと、
右京と左京が私の顔をのぞきこんで、キューンと鳴いた。
心配をされている。
大丈夫。の意味をこめて、撫でようと、むくりと起きると体中から激痛が走った。
ゴホっと咽て、どこかから、見知った気配が近づいてくるのが分かって、
手を伸ばす。
「水」
ガラガラでしわくちゃな変な声が聞こえた。
私の体は変化した。
私の思いも変化した。
結論から言うと、私の体は成長した。
不自由なんて感じなかった短い手足は、長くなってから、
前のがいかに不便だったか知らしめた。
ちゃんと、体を動かせるようになるのに、一週間。
それから、一ヶ月後、月経が起こった。
血が、溢れてきて、お腹は痛いし、頭も痛いし、心底気持ちが悪い。
しかし、くノ一達は、なぜか慈しみの目で、赤飯を炊いてくれた。
ゴマがきいて、丁度いい塩梅の塩味に、腹を満たすと、
目の前の男が、難しそうな顔をしている。
なんでこいつは、あの日以来ずっとここに来るのか、分からない。
私は、お腹をさすり、これで、子どもが孕めるのか、と思ったけれど、
肝心の相手がいないのでは意味がないなと、苦笑していれば、
立花仙蔵がこちらを見ていった。
「・・・・・・お前は、悔しくないのか?」
パチパチと瞬きをする。急に口を開いたと思えば、なにを言っているんだ
「・・・すまない、今のは忘れろ」
立ち上がって、出ていこうとする立花仙蔵に私は声をかける。
「忘れろ。いいだろう忘れといてやる。
だから、立花仙蔵、何をみたか知らないが、忘れるべきだ」
いなくなってから、私は、長い溜息を吐く。
私は、へーちゃん。いや、久々知兵助との縁を切った。
手を天井にかざせば、糸なんて見えない。
だけど、昔よりも兵助との繋がりを感じない。
それが切れた状態なんだろう。
そして、立花仙蔵は、私の記憶が正しければ、子供と大人の境目に出会った気がする。
何を見たのか、何を感じたかしらないけれど、
立花仙蔵に何かしらの変化を与えたようだ。
そういえば、私は、立花仙蔵に助けられたと、くノ一の彼女らが言っていた。
ならば、私は彼に恩を返すのが正当だろう。
私は、部屋を出て、誰かの名前を呼んだ。
10
五月蝿いギンギン男が、夜の鍛錬に出かけている。
夜がいやに静かだけれど、見知った気配に気づいて、後ろを向けば、
ピンク色が目に入った。
「仙蔵」
「乙音」
名前を呼べば、彼女は頭を下げた。
一体どういうことだ。と唖然としていれば。
「ごめんなさい。私が悪かったわ。もう一度やり直せないかしら?」
ずっと夢見たことを言ったので、
これは自分の見ている夢かと思ったが、彼女が握った手が温かいので、
夢でないことに気づいて、すぐさま、あの女のところへ乗り込んだ。
「何、言った!」
「なぜ、怒る。お前が望んでいたことだろう」
本を読んでいたあいつは、こちらを見ようともしないで、本に夢中だ。
「お前に、繊細を求めた私が馬鹿だった」
「私のところに乗り込んで、直せとか見当違いなことを言うお前の健気な姿に、
惚れ直して、彼女はお前をまた好きになった。良かったな」
「・・・・・・」
「なぜ、不機嫌?」
「お前も、恋をしてみたら分かる」
「恋か」
ようやく、本を置くこいつの姿に、自分の言葉の失言に
舌打ちをしたくなったが、まだあんな馬鹿のことを思っているかと思うと、
無性にむかついた。
「久々知のことは忘れろ」
そういえば、こいつは、
「ちゃんと兵助とは別れてきた。兵助はもう関係ない」
あっさりと重要な爆弾宣言を言った。
「なぜ、そういうことを、私に言わない!!」
「なぜ、言わなくちゃいけない」
「おまえ、ここまで巻き込んどいて、無関係とか言うのか」
「勝手に来ただけだろう」
「来て悪いか!!」
なんだか、最後の方は、子供の喧嘩のような言葉を吐いた。
あいつは、目を大きくしてから、それから、呆れたような顔をする。
「・・・そうだな。悪かったな」
「分かればいい。ちなみに、いつ言ったんだ?」
「ああ、昼来ただろう。その後の実習」
「いきなりだな」
と言えば、彼女は苦笑した。
「さようならは、思ったらすぐ、そして一気にしてしまおうと思ったんだ」
その言葉の意味を私は明確に読み取れなかったから、
詳細を聞こうと思えば、くノ一達の気配を感じて、そのまま奴の部屋から出て行った。
後ろから投げかけるあいつの眼差しが、いやに嬉しそうだったことなんて気づかないで。
2010・06・18