「へーちゃん、へーちゃん」

こちらを振り向くことのない彼に、私は声をかけ続けた。

「へーちゃん、待って、行かないで、一人はいやだよぉ」

彼は、地面に一本真っ直ぐ引いてある白線を、跨いで、遠くへ行ってしまう。
私は、白線の中には入れなくて、ポツンと一人、遠くを見ていた。
その頃には、もう彼の名前を呼ぶことも、手を伸ばすこともやめて、
彼の後ろ姿をじっと見ているだけ。






「へーちゃん、へーちゃん」

今日も、私は、として兵助と共にいる。
視える雷蔵は、知っている勘三郎は、遠巻きに、何も言わずに見ている。
知らない三郎が突っかかってきて、チリとうなじに、熱が走った。
遠くで私を睨んでいる視線に気づいて、ふっと笑ってやる。

ガタン。

「おい、仙蔵。残しているぞ」

「バカめ。残してなんぞおらん。それは、お前のだろう?」

「はっ?あ、あれ?」

口パクで、「モヤシ」と言ってやれば、殺気が飛んできた。
怖いなぁ。


部屋に帰れば、いつものように、立花仙蔵が出てきた。
私の呆れた顔に、右京と左京までも同じ顔してる。
フフフ。立花仙蔵は、嫌われ者だね。

「聞こえているぞ。この二重人格め」

「二重人格?誰のことかなぁ。立花先輩、こわぁい」

「ウルサイ!!それをヤメろ。虫酸が走るわ」

「だったら、出ていってよ。邪魔だよ。とっても邪魔」

「私とて、このような辛気臭い部屋に来たくはない」

私の部屋は、他の長屋の三人部屋よりも広い。
襖は、桔梗の花が描かれていた。
寝室には、上から四枚の長い白い布が床に降りて、四角の形をなして布団を囲っている。
部屋の中心にある、モコモコとした丸くて大きな布団の上に体を預ける。
右京と左京も名前に入っている位置について、丸くなってくつろいでいる。
誰が作ったって?もちろん私じゃない。全部、彼女らの提供だ。


「へぇ、じゃーなんの御用かな?夢?願い事?」

「戯けたことを。乙音だ。乙音をもとに戻せ」

立花仙蔵が、寝室の正面の白い長い布の一枚につけられた鈴を鳴らさずに、
布団の傍まで来た。さすが、優秀と言われるだけはある。
右京と左京が首をあげたけれど、私は目で大事ないと言う。
目を向ければ、真剣で、人一人視線で殺せそうな立花仙蔵の姿に、
笑みが浮かぶ。

「何を笑っている」

「不思議だと思って。立花仙蔵。あなたは私を信じていない。
夢も願い事も馬鹿らしいと思っているのに、どうして私が、
彼女に何が出来ると言うの?私は、最初から何もしていないよ」

そう、何もね。クスクス笑う私に、立花仙蔵は、苦虫を潰したような顔をして出て行った。
彼が、出て行った後で、くノ一の誰かが私の元へ降り立つ。

「すいません。あの馬鹿が」

ああ、この子が、乙音か。
私に頭を垂れて、申し訳なさそうに、謝っている。
彼らの姿はどこかお門違で、ズレている。
その様は、滑稽であったけれど、私は笑えなかった。
だって、少しだけ、彼らが羨ましかった。


へーちゃん。


私の声に、目を瞑る。
ああ、私も誰かに待ってもらいたい。そして・・・・・・・

・・・・・・馬鹿なことを考えていた。

目の前の乙音と呼ばれた先輩は、私の顔色を伺っている。
だから私は、返答の代わりに、

「さぁ、お眠りなさい」

彼女の望みを与えた。
私は、何もしてないよ。ただ、彼女が望んだだけ。








と呼ばれている少女がいる。
一目見た時から、私はその女が大嫌いだった。
一年下の、将来が楽しみである顔の作りをしている少女で、
本来ならば、作法委員に誘いたいくらいの人物だが、
舌っ足らずな言葉で、「へーちゃん、へーちゃん」と
久々知兵助の後ろをひよこのように追っかけていて、
年をとれば失われていく幼さを、失わずにいる姿に、苛立を募らせた。
そんな私に、幼馴染である乙音が、彼女のことを語った。

「勘違いをしているわ。仙蔵。彼女は、」

”彼女は、とても素晴らしい人”

見たこともないうっとりとした顔で言う彼女に、嫌な予感はしていたのだけれど、
私と乙音は、周りが羨むほどの恋仲であったから、私が一言、

「あいつの話をするな」

と言えば。
・・・言えば、
・・・・・・・言えば。

「じゃぁ、別れましょう。さようなら。仙蔵」

こともなげに、彼女は言った。
じゃれあったり、喧嘩をしたり、浮気をしたり、
別れようと言ったり、言われたり、色々なことがあったけれど、乗り越えてきた二人だった。
二人の間には、涙も、笑顔も、怒りも、楽しさも全て詰まっていたのに、
彼女に、あいつは、不快極まりない人物だから、話すなと言えば、
いつもの彼女の表情、愛しいものに見せる特別な笑顔を消して、
まるで、そこらの餌を食べる野良犬を見るような表情をしていた。
言われた言葉を理解したのは、食堂で偶然出会い、「乙音」と声をかけた時だった。

「乙音、一緒に食べ」

「あら、ごめんなさい。私、彼女たちと一緒に食べる約束をしているの」

そういって、違うくノ一のほうへ行く乙音。

「いいの?」

と、私を気遣って聞く他のくノ一に、
乙音はニッコリと音が出そうなほどの笑顔で言い切った。

「いいの。だって、私。
仙蔵とは、恋人でもなんでもないの、ただの幼馴染なんだから」

立ち尽くす私がしたことといえば、に会いに行くことだった。
正直、不快だったけれど、私と乙音に何かあったとすると、
という人物しかいない。
くノ一のトラップの数が半端ない場所をくぐれば、その人物はいた。
一年から変わらない体に、
くるくると、長い茶色の髪が、結われることなく垂らされている。
茶色の大きな瞳は、キラキラと光っていた。
くるりとこちらを見て、私を映し出す前に、私は彼女の喉元に、クナイを突きつけた。
正直、脅すだけだった。
彼女のなりは一年のようで、本当に一年を攻撃している気分になるので、
殺そうなんて思っていなかった。
それを考えられるくらいは、まだ私は冷静だった。

「乙音に何をした」

「乙音?」

「私の恋人だ」

長い沈黙の中で、私は一つ違和感を覚えた。
平時、見る彼女は、感情屋で、よく泣いていたはずだ。
なのに、何もない。
まさか、恐怖で、失神とかしているのであるまいなと顔を見れば、
彼女の瞳は、ビードロのようで、歪曲して私の姿が映った。
そこには私ではなく、二本の金のツノを生やし、嫉妬に狂った瞳をした
鬼がいた。
私は、クナイを握りしめて、彼女から距離をとると、ゴホゴホと咽る音が聞こえた。
混乱した私は、行動を間違えた。
ゆっくり起き上がる彼女の姿を見てしまったのだ。

泣くことも、怒ることも恐れることもない。
表情のない人形のような、何も語ることのない自然のような、
対極の二つをもった歪な物体がそこにいた。


ようやく、私は理解した。
私が見てきたは、最初からいない。
久々知を必要以上に愛し、雛のようについていくあいつは、ハリボテで、
中身は、全てかなぐり捨てて、世界すら捨てた女の姿だった。








へーちゃん、へーちゃん。
背中を追いかける私の前に、大きな光が訪れた。
ああ。嗚呼。とうとう終わるんだ。悲しいような、ほっとしたような。
良かったね。これで、あなたは、自由だ。



ドカっと音がした。
机を挟んだ目の前の席には、不機嫌な顔をした立花仙蔵。
思えば私は、彼のこの顔しか知らない。
ずずっと、うどんをすすれば、眉毛をひそめた。
汁が飛んだんなら、そこから離れてくれないだろうか。

「いいのか」

短い一文。これも、彼独特の話し方だろう。
いいや、私とあまり話をしたくもないのに、しょうがなくと言ったところか。
そんな優しさ、犬猫にやったらいいのに。

「いいも、何も」

後ろから聞こえるみんなの楽しそうな声。
いつも通り、わたしは、早乙女連を嫌って、ふてくされて、
「いいもん。そいつがいるなら、一人で食べるもん」と言って来た後だ。
彼女が来てから、私は一人になることが増えて、
そのたびに立花仙蔵が、部屋に来て、笑って
「私の気分が分かったか!!」と言って帰っていった気がする。
いつもそうであればいいのに。
ああ、でも。
わたしである時に、話しかけてくることも初めてなら、心配されたのも初めてだ。
笑い声が、大きくなった。
「へいちゃん」と彼を呼ぶ声が小さくなっていく。
ふっ、と一笑して私は、目の前の男に行った。

「私は、そうあって欲しいと願っていたよ」

立花仙蔵は、驚いた顔をして、すぐに不機嫌な顔に戻った。
彼は、私がうどんを食べ終わるまで、席を立たなかった。




“わたしじゃダメなの?”

“うん、私じゃ駄目。あの子は、愛されているからあの子じゃなくちゃ、駄目。”

“なんでぇ?いい子にするよ。頑張るよ。”

“いい子になっても、誰も来ないよ。”

“来なくてもいいもん。待ってるもん。”

“そうして、私は死んだ。それに、あなただって分かっているでしょう?
糸は、もう、『ボロボロだ。』””


赤い糸の塊は、たくさんあって、何重にも手に巻ついてる。
だけど、二人を結ぶ糸は、一本だけで、細かった。
そうして、糸は、

「ねぇ、兵助は、わたしのこと嫌いになった?約束はもういい?」

真ん中からプッツリと切れた。



ブクブクブク。
息が球になって、上へあがる。
愛していたよ。ねぇ、愛していたよ。
さようならは、いつでも悲しいね。

ブクブクブク。
息だけじゃなくて、涙も上へあがる。
もう、二度と涙なんて流さなくていいように。









むしゃくしゃする。あいつを見ているとむしゃくしゃするんだ。
なんで、あの女を、排除しない?
あいつなら簡単だろう?
いつものように、夢だとか希望だとかで誘惑して、お前に絶対な者にすればいい。
そうすれば、乙音のように、お前の熱狂的な信者になる。
そうすれば、お前の愛した久々知兵助を、奪われる心配なんてないのだ。
天女だなんて、訳の分からない女に誑かされた久々知も久々知だ。
前までは、だったのに。5年も同じでムカつくし、
今日のあいつの言葉も、表情も、何もかも気にくわない。

「・・・・仙蔵。どうかしたか?」

恐る恐る聞いてきた文次郎の言葉で、はっとすれば、
私は部屋のものを全て、なぎ倒していた。
立っていた私は、そのまま何も言わず、床に座った。
あぐらをかき、腕を組み。トントントンと人差し指で、腕を打つ。
ああ、そうだ。認めよう。
一番、気にくわないのは、あいつのことをこんなに気をかけている私だ。
あいつは、敵だ。私から愛しの乙音を奪った憎い敵だと言うのに。

トントントン。リズムカルに鳴らしていくうちに、私の頭に一つの可能性が浮かんだ。

もしかして、あいつが、久々知兵助を愛したことも嘘か?
だったら、私は騙されていたのでは?
・・・・・・そうとしか、考えられない。
好きで愛している人物を、他の奴に盗られてもいいなどあるわけがない。
してやられた!!
チッと舌打ちをして、横で何かを言っていた文次郎の言葉を無視して、
部屋を出て、あいつの部屋へ急いだ。













2010・5・16