1
「へーちゃん、へーちゃん」
こちらを振り向くことのない彼に、私は声をかけ続けた。
「へーちゃん、待って、行かないで、一人はいやだよぉ」
彼は、地面に一本真っ直ぐ引いてある白線を、跨いで、遠くへ行ってしまう。
私は、白線の中には入れなくて、ポツンと一人、遠くを見ていた。
その頃には、もう彼の名前を呼ぶことも、手を伸ばすこともやめて、
彼の後ろ姿をじっと見ているだけ。
2
「へーちゃん、へーちゃん」
今日も、私は、として兵助と共にいる。
視える雷蔵は、知っている勘三郎は、遠巻きに、何も言わずに見ている。
知らない三郎が突っかかってきて、チリとうなじに、熱が走った。
遠くで私を睨んでいる視線に気づいて、ふっと笑ってやる。
ガタン。
「おい、仙蔵。残しているぞ」
「バカめ。残してなんぞおらん。それは、お前のだろう?」
「はっ?あ、あれ?」
口パクで、「モヤシ」と言ってやれば、殺気が飛んできた。
怖いなぁ。
部屋に帰れば、いつものように、立花仙蔵が出てきた。
私の呆れた顔に、右京と左京までも同じ顔してる。
フフフ。立花仙蔵は、嫌われ者だね。
「聞こえているぞ。この二重人格め」
「二重人格?誰のことかなぁ。立花先輩、こわぁい」
「ウルサイ!!それをヤメろ。虫酸が走るわ」
「だったら、出ていってよ。邪魔だよ。とっても邪魔」
「私とて、このような辛気臭い部屋に来たくはない」
私の部屋は、他の長屋の三人部屋よりも広い。
襖は、桔梗の花が描かれていた。
寝室には、上から四枚の長い白い布が床に降りて、四角の形をなして布団を囲っている。
部屋の中心にある、モコモコとした丸くて大きな布団の上に体を預ける。
右京と左京も名前に入っている位置について、丸くなってくつろいでいる。
誰が作ったって?もちろん私じゃない。全部、彼女らの提供だ。
「へぇ、じゃーなんの御用かな?夢?願い事?」
「戯けたことを。乙音だ。乙音をもとに戻せ」
立花仙蔵が、寝室の正面の白い長い布の一枚につけられた鈴を鳴らさずに、
布団の傍まで来た。さすが、優秀と言われるだけはある。
右京と左京が首をあげたけれど、私は目で大事ないと言う。
目を向ければ、真剣で、人一人視線で殺せそうな立花仙蔵の姿に、
笑みが浮かぶ。
「何を笑っている」
「不思議だと思って。立花仙蔵。あなたは私を信じていない。
夢も願い事も馬鹿らしいと思っているのに、どうして私が、
彼女に何が出来ると言うの?私は、最初から何もしていないよ」
そう、何もね。クスクス笑う私に、立花仙蔵は、苦虫を潰したような顔をして出て行った。
彼が、出て行った後で、くノ一の誰かが私の元へ降り立つ。
「すいません。あの馬鹿が」
ああ、この子が、乙音か。
私に頭を垂れて、申し訳なさそうに、謝っている。
彼らの姿はどこかお門違で、ズレている。
その様は、滑稽であったけれど、私は笑えなかった。
だって、少しだけ、彼らが羨ましかった。
へーちゃん。
私の声に、目を瞑る。
ああ、私も誰かに待ってもらいたい。そして・・・・・・・
・・・・・・馬鹿なことを考えていた。
目の前の乙音と呼ばれた先輩は、私の顔色を伺っている。
だから私は、返答の代わりに、
「さぁ、お眠りなさい」
彼女の望みを与えた。
私は、何もしてないよ。ただ、彼女が望んだだけ。
3
と呼ばれている少女がいる。
一目見た時から、私はその女が大嫌いだった。
一年下の、将来が楽しみである顔の作りをしている少女で、
本来ならば、作法委員に誘いたいくらいの人物だが、
舌っ足らずな言葉で、「へーちゃん、へーちゃん」と
久々知兵助の後ろをひよこのように追っかけていて、
年をとれば失われていく幼さを、失わずにいる姿に、苛立を募らせた。
そんな私に、幼馴染である乙音が、彼女のことを語った。
「勘違いをしているわ。仙蔵。彼女は、」
”彼女は、とても素晴らしい人”
見たこともないうっとりとした顔で言う彼女に、嫌な予感はしていたのだけれど、
私と乙音は、周りが羨むほどの恋仲であったから、私が一言、
「あいつの話をするな」
と言えば。
・・・言えば、
・・・・・・・言えば。
「じゃぁ、別れましょう。さようなら。仙蔵」
こともなげに、彼女は言った。
じゃれあったり、喧嘩をしたり、浮気をしたり、
別れようと言ったり、言われたり、色々なことがあったけれど、乗り越えてきた二人だった。
二人の間には、涙も、笑顔も、怒りも、楽しさも全て詰まっていたのに、
彼女に、あいつは、不快極まりない人物だから、話すなと言えば、
いつもの彼女の表情、愛しいものに見せる特別な笑顔を消して、
まるで、そこらの餌を食べる野良犬を見るような表情をしていた。
言われた言葉を理解したのは、食堂で偶然出会い、「乙音」と声をかけた時だった。
「乙音、一緒に食べ」
「あら、ごめんなさい。私、彼女たちと一緒に食べる約束をしているの」
そういって、違うくノ一のほうへ行く乙音。
「いいの?」
と、私を気遣って聞く他のくノ一に、
乙音はニッコリと音が出そうなほどの笑顔で言い切った。
「いいの。だって、私。
仙蔵とは、恋人でもなんでもないの、ただの幼馴染なんだから」
立ち尽くす私がしたことといえば、に会いに行くことだった。
正直、不快だったけれど、私と乙音に何かあったとすると、
という人物しかいない。
くノ一のトラップの数が半端ない場所をくぐれば、その人物はいた。
一年から変わらない体に、
くるくると、長い茶色の髪が、結われることなく垂らされている。
茶色の大きな瞳は、キラキラと光っていた。
くるりとこちらを見て、私を映し出す前に、私は彼女の喉元に、クナイを突きつけた。
正直、脅すだけだった。
彼女のなりは一年のようで、本当に一年を攻撃している気分になるので、
殺そうなんて思っていなかった。
それを考えられるくらいは、まだ私は冷静だった。
「乙音に何をした」
「乙音?」
「私の恋人だ」
長い沈黙の中で、私は一つ違和感を覚えた。
平時、見る彼女は、感情屋で、よく泣いていたはずだ。
なのに、何もない。
まさか、恐怖で、失神とかしているのであるまいなと顔を見れば、
彼女の瞳は、ビードロのようで、歪曲して私の姿が映った。
そこには私ではなく、二本の金のツノを生やし、嫉妬に狂った瞳をした
鬼がいた。
私は、クナイを握りしめて、彼女から距離をとると、ゴホゴホと咽る音が聞こえた。
混乱した私は、行動を間違えた。
ゆっくり起き上がる彼女の姿を見てしまったのだ。
泣くことも、怒ることも恐れることもない。
表情のない人形のような、何も語ることのない自然のような、
対極の二つをもった歪な物体がそこにいた。
ようやく、私は理解した。
私が見てきたは、最初からいない。
久々知を必要以上に愛し、雛のようについていくあいつは、ハリボテで、
中身は、全てかなぐり捨てて、世界すら捨てた女の姿だった。
4
へーちゃん、へーちゃん。
背中を追いかける私の前に、大きな光が訪れた。
ああ。嗚呼。とうとう終わるんだ。悲しいような、ほっとしたような。
良かったね。これで、あなたは、自由だ。
ドカっと音がした。
机を挟んだ目の前の席には、不機嫌な顔をした立花仙蔵。
思えば私は、彼のこの顔しか知らない。
ずずっと、うどんをすすれば、眉毛をひそめた。
汁が飛んだんなら、そこから離れてくれないだろうか。
「いいのか」
短い一文。これも、彼独特の話し方だろう。
いいや、私とあまり話をしたくもないのに、しょうがなくと言ったところか。
そんな優しさ、犬猫にやったらいいのに。
「いいも、何も」
後ろから聞こえるみんなの楽しそうな声。
いつも通り、わたしは、早乙女連を嫌って、ふてくされて、
「いいもん。そいつがいるなら、一人で食べるもん」と言って来た後だ。
彼女が来てから、私は一人になることが増えて、
そのたびに立花仙蔵が、部屋に来て、笑って
「私の気分が分かったか!!」と言って帰っていった気がする。
いつもそうであればいいのに。
ああ、でも。
わたしである時に、話しかけてくることも初めてなら、心配されたのも初めてだ。
笑い声が、大きくなった。
「へいちゃん」と彼を呼ぶ声が小さくなっていく。
ふっ、と一笑して私は、目の前の男に行った。
「私は、そうあって欲しいと願っていたよ」
立花仙蔵は、驚いた顔をして、すぐに不機嫌な顔に戻った。
彼は、私がうどんを食べ終わるまで、席を立たなかった。
“わたしじゃダメなの?”
“うん、私じゃ駄目。あの子は、愛されているからあの子じゃなくちゃ、駄目。”
“なんでぇ?いい子にするよ。頑張るよ。”
“いい子になっても、誰も来ないよ。”
“来なくてもいいもん。待ってるもん。”
“そうして、私は死んだ。それに、あなただって分かっているでしょう?
糸は、もう、『ボロボロだ。』””
赤い糸の塊は、たくさんあって、何重にも手に巻ついてる。
だけど、二人を結ぶ糸は、一本だけで、細かった。
そうして、糸は、
「ねぇ、兵助は、わたしのこと嫌いになった?約束はもういい?」
真ん中からプッツリと切れた。
ブクブクブク。
息が球になって、上へあがる。
愛していたよ。ねぇ、愛していたよ。
さようならは、いつでも悲しいね。
ブクブクブク。
息だけじゃなくて、涙も上へあがる。
もう、二度と涙なんて流さなくていいように。
5
むしゃくしゃする。あいつを見ているとむしゃくしゃするんだ。
なんで、あの女を、排除しない?
あいつなら簡単だろう?
いつものように、夢だとか希望だとかで誘惑して、お前に絶対な者にすればいい。
そうすれば、乙音のように、お前の熱狂的な信者になる。
そうすれば、お前の愛した久々知兵助を、奪われる心配なんてないのだ。
天女だなんて、訳の分からない女に誑かされた久々知も久々知だ。
前までは、、だったのに。5年も同じでムカつくし、
今日のあいつの言葉も、表情も、何もかも気にくわない。
「・・・・仙蔵。どうかしたか?」
恐る恐る聞いてきた文次郎の言葉で、はっとすれば、
私は部屋のものを全て、なぎ倒していた。
立っていた私は、そのまま何も言わず、床に座った。
あぐらをかき、腕を組み。トントントンと人差し指で、腕を打つ。
ああ、そうだ。認めよう。
一番、気にくわないのは、あいつのことをこんなに気をかけている私だ。
あいつは、敵だ。私から愛しの乙音を奪った憎い敵だと言うのに。
トントントン。リズムカルに鳴らしていくうちに、私の頭に一つの可能性が浮かんだ。
もしかして、あいつが、久々知兵助を愛したことも嘘か?
だったら、私は騙されていたのでは?
・・・・・・そうとしか、考えられない。
好きで愛している人物を、他の奴に盗られてもいいなどあるわけがない。
してやられた!!
チッと舌打ちをして、横で何かを言っていた文次郎の言葉を無視して、
部屋を出て、あいつの部屋へ急いだ。
2010・5・16