「好きです。土井先生」

頬を赤く染めて幼い少女が私に言った。
私は苦笑した顔のまま、心の中は凪いでいた。
前もこんなことがあった。
その時のほうがどうすればいいか、
もっと困って、もっと脳みそが回転していたはずだ。
苦笑した私の顔に必死な少女。
そこまで似せなくても構わないと思ってしまっている
自分は好かれるに値しない男だ。
少女がいなくなって、白い白衣がひらりと目の端に入ってきた。
ひょろりと細く薄い体を、やや猫背にして落ちそうな
人差し指で眼鏡をかけもどしながら、
にまにまと嫌らしい笑みを抱いて黒石さんは私に近づいてきた。

「青春してますね。土井先生」
「黒石さんも青春してるじゃないですか」
「だれとです?」

だれなんて分かりきったことを問いてくる本当に嫌味な男だ。
素知らぬ振りをしている黒石さんに、人物の名前を言うことが出来ず、
ぐっと手のひらを握りしめた。
黒石さんは私と対面していたけれど、
私の横を通りすぎ5歩のところで止まって私に尋ねた。

「あの子と付き合うんですか?」
「あなたには関係ない話です」
「いやいや、関係大有りです」
「なんでですか?」

ばっと振り返ると、黒石さんは見たことないかおをしていた。
いつもへらへらしていた雰囲気を消して、
無のような静けさで、鋭い目と少し開かれた口。
いつもの笑みで分からなかったけれど、黒石さんの顔が悪くないことが分かる。
3歩。黒石さんは私に近寄る。

「土井先生。僕はこれでも結構我慢しているんですよ。
知らないでしょう?あなたは」

黒石さんは私の心臓の場所に、トンと指でさして5秒。
それから、私に背を向けて歩き始める。
腕を左右に、手をひらひらとさせて黒石さんは私に言う。

「あの子とつきあってみたらどうですか?」

と。

「それでも分からなければ・・・まぁ、そこからはしょうがないことですね」

何がしょうがないのだろうか。
聞き返すことも出来ずに、私は突っ立って、
黒石さんの白い白衣を見えなくなるまで見つめていた。









「聞きました先生。あの子と付き合うことになったんですね」

私の部屋に入って、掃除が終わるとは言った。
前回なかなかが来なかったのは、実習があったらしい。
きり丸が来たのは、が頼んだからだそうだ。
でも、だったら
だったら、なぜ黒石さんの所はあんなに綺麗だったのか。
それを聞くことは、出来なかった。
私はの好意を受けることができない。
私が振ったのだ。を。
それでも傍にいるに、言うことなんてできない。
目の前のは、私の中の記憶どおりの
私に憧れて好きで、懐いてくれている。
私の贔屓している可愛い生徒の

「そしたら、邪魔になるから、ここには来ませんね」
「いや・・・」

いやの後ろに何をいうべきか考えたけれど、資格がない私は沈黙した。
は、ふっと息を一回吐いて。

「分かりました。来ない時間に来ます」

それからは世間話を一つ二つ言うと、
立ち上がり、またと扉をしめようとするから、
まだ傍にいて欲しかった私はになにか言おうとした。
そのなにかを考えつかなかった私の口は、奥底に隠していた思いを口にした。

「なんで包帯をとったんだ?」
「・・・そうですね。私の目、実は、全然怪我なくて普通に見えてたんですよ。
でも私も女ですから、顔に傷が残るのは少しショックだったんです。
人にどう思われるかが怖かったんです」

言ってから後悔した。
は何かを思い出すように上を見た。
口元には笑みを抱いていた。

「でも、言われちゃいました。
君はそんなちっぽけなことで目を隠して、
何万もの素晴らしいものたちを片目だけで見るのかって。
周りからどうみられても、所詮他人は他人なんだから、
自分の人生を愛すべきだって」
「黒石さんが言ったんだろう」
「分かりますか。ああ、でも当たり前か。
あんなハチャメチャなこという人、一人しかいませんしね」

くすくすと笑う。仕方がない人。と言いながらも、好意が見え隠れ。
心臓をぐっと掴まれて、一回息が止まった。
笑顔のが可愛らしいと思ったのに、
黒石さんへ笑うは憎らしい。
黒石さんとの姿を見てきてある確信が私の心のなかにあった。
それを口にする気はなかったのだけれど、私の口は私に反抗期らしい。

「君は黒石さんが好きなのか?」
「はい、私は黒石さんが好きです」

の答えは早かった。

「そうか」

そうか。心のなかでもう一度呟いた。
目の前の少女は私の目をしっかり見ていた。
私もを見た。
艶やかな黒髪と濡れている瞳、
目の横にある一本の赤い線に、
同じく赤い熟れた唇をもち、頬は薄紅色で、芳しい匂いをさせて、
くらりと脳みそが揺れた。
は、いつの間にか少女ではなく女になっていた。
手を伸ばそうとしたけれど、
を開花させたのは私ではなく黒石さんで、
黒石さんだってに悪い思いをいだいていないことを知っている。
二人で共に歩き手を繋いでいる姿が見えて、
チリっと何か燃えて焦げ臭い匂いがした。
だけど、私はこれ以上を傷つけたくもなかった。
可愛い少女の恋をのためといいながら
自分が嫌われたくないからズタボロにした。
あまつさえ、顔の責任をとって結婚だなんて、好きだなんて
われながら酷いことをしたと思う。
は私よりも大人で私よりも強かったから、
私を諦めて、傍にいることを選んだ。
それに甘えていたのだ。私は。
が誰を選んでも私は喜ぶべきだ。
が幸せになれるのだから。
私は手を引込み、

「良かったな」

と言った。
は何も言わずに背を向けてでていった。
だけど、すぐには帰ってきた。
何か忘れ物でもしたのかと思うと背中に抱きつかれる。

「先生。土井先生。こっち見ないでください。
お願いします。そのままで、絶対見ないでくださいね」

鶴の恩返しのような台詞を言われた。
私は見ないと頷いた。

「私は黒石さんが好きです。好きなんです。
だから、大丈夫。安心してください。
でも、あの門をくぐるまではあなたを好きであらせてください
・・・ごめんなさい」

はそういって私から離れた。
離れてしまった体温が恋しくて振り向けばはもういなかった。



にまだ好きだと言われた。違う少女に言われたのと同じ言葉で、
同じ意味なのに、私は少女を忘れてばかり思う。
でも、黒石さんが好きに、
私には見せなかった泣き顔を、
黒石さんになら見せるのだろうかと考えて、
私の机の上に積まれていたは組の小数点のテストは、
空を舞い、ばらばらに地面に落ちた。







2011・6・2